帰路
- torygoya
- 2024年6月10日
- 読了時間: 3分
15連勤中10連勤目、金曜午後9時手前。
騒ぐ酔っぱらいに苛立ちを覚えながら、新宿歌舞伎町の外側を早歩きで進んで行く帰り道で、その人に出会った。
少し開けた広場に座り込んでいるその人は、薄汚れたコートを羽織り、長い髪を垂らしながら手元のアコギを見つめていた。足元には使い古されたギターケースが小銭を欲して開いているが、何も入っていない。道行く人々は彼を無視して通り過ぎる。演奏もしていないのだから、当然ではある。
私も足早にそこを去ろうとした時、「あの」と声をかけられた。舌打ちをするタイプなら、鳴らしていたかもしれない。
舌打ちというのは人間の自然な反射で起こるものではないと思う。鳴らす人はおそらく、鳴らしている人を見て、故意的に、それを真似して、結果身についているのでは?
話したいのはそういうことではない。閑話休題。
「はい?」と返した。想定より不機嫌な声だった。繰り返すが私は15連勤中10連勤目。朝7時から働いている。一刻も早く帰り、明日の6時入りに備えて寝たい。舌打ちをするタイプなら盛大に鳴らしている。そのタイプではないので、このような返事をした。
新宿のネオンが彼の瞳に反射して私に返った。想像していたよりずっと若い。
「弦が切れてしまって」と言うので彼が抱えているギターを見ると、確かに下から2番目の弦がベロンと力なく床に垂れていた。
「ああ、本当ですね」
「でも買い換えるお金がなくて」
「ああ……」
そんなやり取りをしながら、私は返事をしてしまったことを悔いた。要するに物乞いされているのだ。
「買っていただけないでしょうか」などと言い出すので、「いやあ。すみません、ちょっと無理です」とすかさず断った。この手の場面であまり無闇に金銭のやり取りはしない方がいい。何より本当に帰りたかったので、そのまま会釈をしてその場を離れる。
はずだった。
背後からギターの音が聞こえてきた。
ざわついた広場で、妙に通るそのメロディーは聞いたことがあるものだった。
推しの曲。アルバムの1曲目。
asgard。
気がつけば改札手前で左に曲がり、隣の駅ビルに入っていた。
蛍の光が流れているビルを真っ直ぐ駆け上がると、楽器屋がある。カリンバもオタマトーンもここで買った。
下から2個目の弦。B。ああ、あの人の他の弦がなんの種類なのかわからない。でももうアコギならなんでもいいか。でもバラ売りはエレキしかない。ええいままよ。野口ぐらいなんだ。
間違いなく良い楽器で、間違いなく上手い人が、私のカバンにぶら下がった「窓」のキーホルダーを見てすかさず1フレーズ弾いたのだ。弦の切れたギターで。
応えようと思った。
袋はいらないですと、店舗のシールを貼ってもらい元来た道を駆け降りた。
もうその人はいなかった。
最初からいなかった。
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